城崎温泉の歴史には、2つの由来が存在しています。
時のみかど舒明天皇(629)の頃、けがをしたコウノトリにより発見されましたのが『城崎温泉』の起こりとされていますが(鴻の湯の由来)、その後、元正天皇の養老元(717)年、この地を訪れた道智上人が難病の人々を救う為に、当所鎮守四所明神に祈願を込め、明神の神託を得て一千日の間八曼陀羅を唱え、その祈願によって『城崎温泉』が開かれたとされています(まんだら湯の由来)。
平安時代の古今和歌集に「但馬の国の湯へまかりける時、二見の浦と云う所にとまりて・・・」(藤原阿法師)とあるように、すでに1000年以上も前から都の貴人がはるばる城崎の温泉に赴いていたことが明らかにされています。
貴人、高僧、文人墨客の来遊が続きましたが、江戸時代になると温泉医学を大成した香川修徳が城崎温泉の新湯を日本一の湯と推賞したりしたことによって城崎温泉の名声は大いに高まり、大衆客も多く来湯するようになって、宿屋も発生しました。現在は7湯と呼ばれていますが、江戸時代には外湯の元になった湯壷は9つあったそうです。
宿屋は、その後次第に数も増して、幕末には宿屋組合も組織され、63軒が官許されました。
江戸時代の城崎温泉はすでに遊技場のほか、食べ物屋は鍋焼き、ぜんざい、うどん、そばなどが揃い、果物、魚、鳥も各地から運ばれフグ、タコ、カモと何でも手に入ったようです。
貸し物屋では三味線、すごろく、碁、琵琶、琴、さらに、槍や刀まで貸してくれるほどの品揃え。
このように、客が帰るのを忘れさすほどもてなしていました。
城崎温泉には近郊の藩主や藩士が多数訪れ、大変なにぎわいをみせていました。
明治に入って、日清・日露両戦争の影響を受けて、一時期不振な時を迎えたものの、その後の日本経済の好景気と明治43年の山陰本線の開通によって、城崎温泉は、京都ばかりでなく、広く阪神その他の地方からも浴客を迎え入れる、日本屈指の温泉地として、その礎を築きました。文豪志賀直哉がこの地を訪れ、有名な「城の崎にて」を書いたのは大正2年のことでありました。
こうして発展してきた城崎温泉にとってもっとも決定的な出来事は、大正14年に発生した北但大震災でありました。
北但大震災は、温泉市街地を見る影もなく壊滅しました。
しかし町民の努力によって、市街地の復興は驚くべき速さで進められました。
大谿川を骨格とする温泉街づくりは区画整理事業によってなされましたが、和風を基調とした町並み景観や街路景観、外湯のイメージアップ、防災的市街地の形成などが重視され、三方が山に囲まれた山間地にあって、まとまりある落ち着いた雰囲気の市街地が形成されて、以前にも増して城崎温泉の名声を世に広めました。
「この復興最中の城崎に来て、激しい暑さと疲労とを忘れさせるような楽しい温泉宿にたどり着いたという感じは深かった」
大震災の翌年城崎を訪れた島崎藤村は、その当時の印象を「山陰土産」の中に記しています。
第2次大戦後の経済復興、昭和30年代に始まる高度経済成長を通じて、大衆消費時代ともいわれる国民の消費生活の変化が進行し、観光志向は増大の一途を辿ってきました。その結果、観光客はさらに大衆化し、旅館を増大させるとともに、旅館経営の近代化、合理化を促進しました。
こうした動向の中で、和風を基調とした城崎温泉にも大規模なホテルが出現し、旅館の増改築も進んで、山間地の狭小な平地は過密化を進行させました。
また、モータリゼーションの進行によって、街路や空き地は自動車に占領され「楽しい温泉宿」は、徐々に変貌を遂げ今日に至っております。