ゆとうや旅館の歴史

江戸・元禄元年(1688年)創業。古くから、多くの文人墨客にご愛顧いただいたゆとうや旅館の歴史をご紹介致します。

ゆとうや旅館

ゆとうやは、「油筒屋」と書きます。

油筒屋の祖先は、出石の城主、山名(やまな)氏の幕僚(ばくりょう)で、水ノ尾(みずのお)(現在の豊岡市日高 町国府付近)の城主、西村丹後守(たんごのかみ)の直系であります。

天正(てんしょう)年間、織田信長の命より、羽柴(はしば)秀吉が但馬(兵庫県北部地方)の国に進攻した時、丹後守は、山名氏の諸将と共にこれを防がんとしましたが、戦い利あらず羽柴氏の為遂に亡ぼされました。

その時、長子が難を逃れ、時がたち、いつしかこの城崎(当時は、湯島と呼ぶ)に来て農を業として油屋(あぶらや)(現存しない)と名乗りました。

その後元録(げんろく)元年(1688年)に、油屋三代西村仁左衛門(にざえもん)の子の六左衛門(ろくざえもん)と同じ湯島の井筒屋(いづつや)(現存しない)武谷六郎衛門(たけたにろくろうえもん)の娘とが、婚を結び、つまり本家の油屋と井筒屋とを併せて油筒屋(ゆとうや)を興(おこ)したのが当家の初代であります。

当初は農業及び海運並びに酒造を営んでいました

六代目の時代になって浴客の為の宿屋をも業とする様になりました。

始めは、広い邸内を各大名諸侯に貸地して夫々(それぞれ)好みに応じた家を建てさせ入浴逗留(とうりゅう)を計って居り、大正14年の北但(ほくたん)大震災までは、徳島蜂須賀(はちすか)家の詠帰亭(えいきてい)、福知山朽木(くちぎ)家の扶老亭(ふろうてい)、宮津松平家の雲生亭(うんせいてい)、などは昔のままで残っていました。

各館の名前について

例えば詠帰亭は柴野粟山(しばのりつざん)、扶老亭は頼杏坪(らいきょうへい)、などの諸先生が名付けられたものです。近世となってからも、油筒屋は、田山花袋(たやまかたい)、島崎藤村(しまざきとうそん)、松瀬青々(まつせせいせい)、与謝野寛(よさのひろし)・晶子(あきこ)、吉井勇(よしいいさむ)、山口誓子(やまぐちせいし)、など多くの方々のご愛顧を頂き、第二次世界大戦後、油筒屋をゆとうやと変えましたが、庭園の松の緑を直しそのままに、詩情あふれる湯の街きのさきの「日本の宿ゆとうや」として今日に至っています。

昭和中期以降の油筒屋

第二次大戦後、皇族は山陰方面へのご訪問には、必ず油筒屋旅館にご宿泊されています。

  • 幕末、桂宮御殿は孝明天皇の仮御所になっていたように、古来、宮家御殿は皇族には親しみのある存在です。
  • 昭和43年(1968年)10月5日・昭和天皇・香淳皇后、昭和57年(1982年)7月27日・皇太子殿下・同妃殿下時代の上皇上皇后両陛下ご宿泊。その他、常陸宮・三笠宮・高松宮・秋篠宮等。
  • 天皇・皇太子のご接待は、宮内庁女官が、宮様方は、油筒屋接客が担当しています。
  • 皇族ご接待の記録も保存されています。それらを管理し、作法を伝承するのは、女将の勤めです。
  • 「詠帰亭」は、皇族ご宿泊専用で、一般の宿泊は受けませんが、担当者を置き、維持管理に努めています。
  • 皇室はじめVIPが、油筒屋をご愛用になるのには、油筒屋の“おいたち”に由来するワケがあります。
  • 大名方の逗留所には、①守り(家)、②寛ぎ(庭)、及び③語らい(人)の3条件が必須で、とりわけ管理人である主人は見識・教養そして最新の知識を備えていました。
  • 城崎に多くの文人墨客が訪れるのは、このまちに、宿の主人はじめ、お相手する人たちが、たくさん居られたからでしょう。

詠帰亭(貴賓館)について※詠帰亭は非営業です。

江戸時代中期、この館は、阿波徳島藩・蜂須賀家専用の城崎における入湯用宿舎として、油筒屋内に建築され、同家へ貸し出されました。 「詠帰亭」の名は、徳川幕府の昌平學(学問所)教授として有名な、徳島藩の儒学者、柴野 栗山にて命名されました。今も、栗山書の命名額が「詠帰亭」に現存しています。
栗山は、度々城崎へ来遊して、「玄武洞」なども命名。残念ながら、初代の建物は、北但大震災にて焼失いたしましたが、同様の建物を再建し、昭和天皇陛下、皇太子時代の上皇陛下など多くの方々にご宿泊賜りながら、今日にいたっております。

ゆとうや旅館の歴史

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